日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版) 2017年9月29日号
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日本計量新報週報デジタル版フ目次
1、私の履歴書 鍋島綾雄(14)未熟な経営者としての成功と失敗
1、計量計測データバンク フェイスブックニュース(ニュースを週ごとに10本ほど掲載しております)
1、計量計測データバンク ツイートニュース(ニュースを週ごとに10本ほど掲載しております)
1、今週の日本計量新報全紙面 webサイトに掲載されている新聞のデジタル版です。全紙面を更新 (6月25日号(3154)を掲載)
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「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)
私の履歴書 「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 鍋島綾雄(14) 未熟な経営者としての成功と失敗 目次 |
目次 私の履歴書 「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 鍋島綾雄(14)未熟な経営者としての成功と失敗 目次 1959(昭和34)年の暮れに仙台へ移った私は、1960(昭和35)年1月の総会で伊藤さんに最後の花道として社長に就任してもらうよう提案し、私は専務に就任した。そして日東で私が先ず手がけたことは、月に2回しか休みがなかったのを日曜・祭日は休みにしたこと、中卒の新入社員2名を日給150円(時給ではない)で採用したこと、中古の1トントラックを購入して運転手を採用したことであった。 半年もたたない1960(昭和35)年4月、チリ地震で三陸沿岸は大津波に襲われ甚大な被害を蒙った。塩釜・石巻・気仙沼の魚市場や水産加工場の台秤は海水に浸かって使い物にならなくなった。丁度買ったばかりの中古の1トントラックで浜との間をピストン輸送して修理をするはかりを運んだ。思いがけないこの特需が、若い力で積極経営をやろうとスタートした私に大きなプラスとして作用した。 そしてこのことがキッカケで修理ハカリの流通経路を変革し、業界でも珍しいスタイルを確立することにつながった。 通常、ハカリの修理はユーザーが各地のハカリの販売店へ持ち込み、販売店から修理業者に送られ、修理が終わればその逆の経路で返されていった。しかし私は、三陸漁場というハカリの消耗の激しい(半年毎に修理が必要な)市場があるという利点を活かして、トラックで修理を集めて廻るというユーザーダイレクト営業を展開することにした。毎週検定し終わった修理品をトラックに満載して三陸漁場に配達して、帰りには修理をするハカリを満載して帰るという繰り返しであった。 業界でも珍しいこの修理の営業はつい最近まで日東の収入のベースを構成する重要な部門として業績の向上に貢献してくれた。 もう一つ取り組んだのは台秤の製造である。全国のメーカーを歩いたお陰で、何処にどういう材料があって何処のメーカーの製造工程が優れているか熟知しているつもりだったので、台秤の製造には自信があると自惚れていた。20数人の規模で相当の台数を造る体制を作り、事実相当な台数を造った。造った台秤の売り先は農協で、秋の米の収穫期になると飛ぶように売れるが、売り逃がすと翌年の秋までストックになる。 見込み生産というのは材料を仕入れて倉庫で寝かし、製造してからも在庫で寝かし、売れてからも代金の回収まで又時間がかかる。 修理は預かった時点で売れているのと同じだし、材料費もかからない。製造は材料を仕入れて金になるまで半年も1年もかかり、資金のないものがやるべき仕事ではない。若気の至りで自信満々で取り組んだが、台秤の製造は失敗だった。 これに懲りて工場は受注した一品料理的な製品の製造に切り替え、見込み生産を止め、受注生産の原則を今日まで守ってきている。 そしてイシダ・鎌長の東北地区代理店契約をして販売会社としての性格を強めて行くことになる。(つづく) |
カッコーが八島湿原で啼けば夏です 旅行家 甲斐鐵太郎
写真は高徳芳忠氏
「生産や効率化・省力に生かすことこそが計量士の使命と考えてきた」 高徳芳忠(計量士)
「一体政治とは何なのか」を議論したくなるが、そんな余地などは全くない。首相を始め、大臣・局長・部長・室長はどんどん変わるばかり、『新計量法』とは、何を反省し、何を粘り強く守っていくために作られたのかが読み取れない。やたらに「規制緩和」や「グローバリズム」に流されているのみである気がする。最近では「自動はかり」と称して「これがはかり?」と思われる代物も現われるようになった。これも40年間放置したままの弊害と思われる。2年前に学んだモンテスキュー先生を再び読み返す気はないが、計量界に在るべき哲学が感じられないのが悲しい。やはり計量法とは、取引はもちろん、日々の生活のなかにしっかりと身に付いていなければならない法律である。特に本稿の後半は辛口の批評に終わったが、私も計量士として50年、今後も良い計量法が良い社会を生みだすように少しでも頑張っていきたいと思っている。(全文は次をクリックしてお読みください。戦後70年の夏 −計量の戦後史を思う−)
6月25日、日曜日の高山を訪れる。古い町並みと朝市を見物する。旅行家 甲斐鐵太郎
黒須茂のエッセー 「人間万事塞翁が馬」天下り校長の悪行を地元紙で
あばくことで書くことに快感をもつようになった(くろす・しげる(元国立高等専門学校教授)